COSPA technologies

言語化できない2024年

2024.12.27
中島嘉一

今年の夏、「名前のわからないもの展」なるものがあったらしい。
例えば、パンの袋を束ねているプラスチックの板。
仕出し弁当内に鎮座する魚の形の醤油入れ。
視力検査で凝視される、色々な向きのCの形。エトセトラ。
説明すれば「ああ、あれね」となるが、名前を意識したことはなく、聞いてもまったくピンとこない。結構、正式名称を意識せず日々生きているものだと感じた記憶がある。

なぜこんな夏のイベントを思い出したのかというと、今が年の瀬だから。ちょうどこのイベントの時期、私は相当追い詰められていて、何なら会社のプチ・危機的状況にあった。原因は5月に早世した副社長、高畑だ。

弔事に代えて

この記事で私は高畑に対し「6割は迷惑を被って文句を言いたい気持ちで、残りの4割が心からの感謝の気持ち」と書いたが、その時から2か月もたたないうちに「9割は文句を言いたい気持ち」に変わった。共同経営者が突如いなくなるということは想像以上にインパクトがデカい。会社の方向性が見えなくなったし、何もかもをひとりで判断しなくてはいけなくなった。高畑が担っていた慣れないコーポレート業務も私の肩にのしかかってきた上、ほかにもなんやかんや業務負担が増え、訳が分からなかった。悲しみや喪失感を感じる余裕もなかったほどだ。この記憶すらない時期のことを振り返りジャーナルでどう表現しようかと考えていたら、ちょうどその時に開催していた「名前のわからないもの展」のことを思い出したのだ。

名前がある、ということはそこに人々の関心と他者への共有ニーズがあるということだろう。「名前のわからないもの展」に登場していたパンを束ねるプラスチック板、魚の形の醤油入れ、視力検査のC。いずれに対しても私は正直、大した関心はないし、他者への共有ニーズもない。これから先も知らずに生きていていたって、なんら問題ないと思う。改めてこれらに対する自分の無関心ぶりに気付かされた。同様に、共同経営者に先立たれ一人残された経営者の気持ちなんてものにだって、誰も大した関心はないだろうし、他者への共有ニーズもないだろう。だからこの感情を名づける必要はない。言語化されなくても誰も困らないというわけだ。焦り、悲しみ、憤り、悔しさ…どんな言葉でもこの時の私の心を言い表せはしない。でもそれで良いと思っている。こんな状況からくる虚しさは誰にも味わってほしくないと思う。私だって二度とごめんだ。言語化による一般化などしてなるものか。

2024年は高畑の早世だけでなく、本当に色々と波乱があった。言語化に強いとうたうWEB制作会社の経営者として、言語化に価値を見いだせない事象に出くわすなんて。つくづく心外だ。思えば年初の厄払いからケチがついていたなあ。

1万円の価値がある厄払い

あの時、お祓いの費用対効果を語ろうとした私に高畑は
「お祓いに費用対効果を求めても…。個人の損得を超えた崇高なものへの寄付だと思えば?」
と言ったっけ。私はただ、自分の愛する家族と会社のメンバーが暖かい心を持ち合い、ワクっとするような出会いを楽しみ、笑顔で毎日を送ってくれれば、それでよかったのだが。あの1万円を崇高なものへの寄付だと思う…神仏へのお願いとは、心の持ちようがなかなか難しい。

こんな1年を経てただひとつ、言えること。それは、私もコスパ・テクノロジーズという会社も、1年前とは随分違う顔をしているということだ。今年の中で言語化できることはこのくらいしかない。2025年末、私はどのような顔をしているのだろう。それを司るのはこれからの自分に他ならないと強く感じる、2024年の師走である。

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