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私は台湾w笑

2022.02.19
広報室





中学時代に、母親に連れて行かれて台湾へ初めて渡航した。
8月のうだるような暑さ、ジメジメとした湿気、感じたことのない臭い。なんていう場所に来てしまったんだ。という気持ち。

台湾が日本に統治されていて、日本の一部だったという歴史はもちろん知らなかった。
でも、なんかみんな日本語話せる。なんなんだ?おじいちゃんが日本語の歌を歌ってる。外国じゃないの?それが、私と台湾の出会い。

その後、紆余曲折あり、行きたい大学のあんまり行きたくなかった学部に進学。
そこはなんと、入学式も授業もシラバスも全て英語で行われる学部。
受験英語は得意で、英語が得意科目だった。そんな中90分ノンストップ英語授業は、宿題すら聞き取れず挫折。英語なんて嫌だ。でも憧れの大学。という中で、留学まで必須。

でももう、この英語地獄で英語なんて今から勉強したって、(あの憎き)帰国子女たちには勝てないんだ。じゃあ、他の言語を学んで、なんちゃってトリリンガルになろう。
そして、じゃあ何学ぶのよ?となったときに、急に台湾を思い出した。中国語、それしかない。

それから、大学一年生の夏休み、今度は友達と台湾旅行へ行った。
そこで、日本語を話しながら台北をぶらぶら歩いていたら、80歳くらいのおじいちゃんが日本語で話しかけてくれて、すごく優しくいろんな場所を案内してくれたり、ご飯を奢ってくれたりした。嬉しかった。
そして、中学の時に感じた、台湾ってどんな場所なの?という疑問が噴出。飛行機で3時間、こんなに近いのに台湾の歴史について何も知らない。世界史選択だったのに、知らない。知りたいし、台湾が日本のこと好きって言ってるのも何で?隣国って仲悪いのが定石。何でなんで?そのなんでを知るために、台湾留学を決めた。

大学2年の後期から1年間、台湾の国立台湾師範大学というこじんまりとした教育大学へ留学した。
大落ちこぼれの中国語能力で、ニーハオと1、2、3のみの語彙力で台湾に乗り込んだ。
台湾留学前に、台湾の歴史を知り、日清講和条約で台湾と澎湖島は日本に割譲され、日本統治を50年間受けていた。そして日本の敗戦により、統治前とは異なる傀儡政権である蒋介石率いる中華民国になる。
日本への親近感は、日本統治は確かに苦しかったけど、その後の国民党政権による支配がさらに苦しいものであり「犬去りて、豚来たる」という表現が残った。
そんな複雑な歴史を持ち、現在でも国ではない、そもそも日本とも国交はない。そんな日本人として生きてきた私には、想像もつかない環境で生きている台湾人たちは、明るくアクティブで優しい。不思議だ。
資料で知った台湾の歴史だけでは、わからない。そう思った私は、日本語世代と呼ばれる戦前に日本統治下で日本の教育を受けていたご高齢の方々に直接お話を聞けないか?と思い、探しまくった。
でも中国語が話せない私は、10年近く昔の記事からある資料館に日本語世代の方がボランティアをされているという記載を見つけた。もういない可能性の方が高いけど、チャリを飛ばして行ってみる。そうすると台湾人のスタッフさんに中国語がわからない私は、筆談で日本語世代の方のボランティアはまだいらっしゃるのか?とお伺いすると、毎週木曜日の午前中に来てるんだよと教えてもらえた。ええ、まだいらっしゃったんだ。行動を起こしてよかった。すぐに次の木曜日会いに行った。日本語が母語で当時すでに85歳くらいの元日本兵としても従軍されていた日本語世代の方にお会いができた。その方とは今も親交がある。日本人へのさまざまな感情、自分自身が台湾人であるとは感じられないというお話。また、世代間で共有する言語が歴史によって共通ではなくなっているため、自分の孫とコミュニケーションが難しいことなど日本人として生きてきた私には全く知らない、日本が生み出した歴史が今も台湾の人々に影響を与えていることを初めて知った。

私は、台湾人ではないし、台湾人の本当の気持ちはわからない。
だけど、彼らと関わることで、さまざまな気づきや一人の人間として、どのような人間になるべきなのか?などたくさんのことを学んだ。台湾に行けない今、それでもどうやったら台湾に恩返しができるんだろうと思いつつ、日々仕事に没頭しつつ、画策を練りたい。

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