先日、某クライアントへのプレゼンが終了する直前。私たちのスタッフが感想を伺うと、ご担当の方が涙ぐんでおっしゃった。「よくここまで私たちのことを考えてくれました」と。このようなお言葉を頂戴することはあるが、感極まっていただくことはそう多くはない。プレゼンターも「そこまでおっしゃっていただいて」と涙ぐんだ。
人が素直に感情を出すと見ている側の感情も揺さぶられるのは、日頃は感情的にならないように自分を抑えているからだろうか。かつて沖縄の芸能スクールを訪問して子供たちのリハーサルを見た時に思わず涙が出たのもそういうことだった気がする。曲に合わせていきなりハジけて大きな声で歌う姿を見て、感情が大きく揺さぶられたのだ。楽しいとか、感激したとか、そういうことではない。むしろ動揺したに近い感覚だった。
しかし、これを作為的にやるとドン引きになる。人の感情を揺さぶろうという魂胆を感じ取ると浅ましくさえ感じる。見ているうちに冷めていって批判的になる。下手な芝居というのはそういうことだ。逆にすごい芝居というのは、作為的ではない芝居なのではないか。たまたま再放送されていたテレビ番組を見てそう思った。
最後の講義「柄本明」(Eテレ)
https://www.nhk.jp/p/ts/4N7KX1GKN7/episode/te/5R3ZRKQM4P/
この番組では、自己紹介の仕方や舞台に出てくる時の心情、セリフの言い方など、番組に参加した若手俳優に柄本氏が模擬稽古をつける。そして「なぜ?」を繰り返す。その過程で若手は、単に前例に倣っていたとか、そういうものだと思っていたとか、あるいは何も考えていなかったことなどを発見する。
その上で俳優は「こうすればよかったかな」などと言うが、柄本氏は「オレにも分からない」と突き放す。さらに「時間や場所が変われば変わるし」と煙に巻く。こうなると俳優はさらに考えざるを得なくなる。怪優だとしか認識していなかったが、柄本氏は哲学者でもあった。
この姿勢は、芝居だけではなく、すべてのもの作りに共通する。アートでも工業製品でも「なぜ?」を繰り返した先にオリジナリティや発明が待っている(かもしれない)。「なぜあの色が出ないのか?」「なぜ微振動がでるのか?」を深掘りしていくうちに道を極めるのだ。
では、なぜ「なぜ?」を繰り返せるのか。芝居でもアートでも工業製品でも、突き詰めれば、それが好きということ以外にない。誰よりも好きだから、誰よりも「なぜ?」を繰り返す。それが苦にならないから繰り返す。そうしているうちに、どこかで「作為的」を脱する。そうすると、素で感情を表したと同じ効果が生じて、見る側の感情を揺さぶるのだろう。
Web サイトも作品である以上、見る側の感情を揺さぶらなければ存在意義がない。