阪神淡路大震災の時は大阪のビジネスホテルにいた。留学先の多国籍同級生が日本の会社を訪問するのをアテンドし、東京から移動してきたばかりだった。明け方にベッドから落ちそうになって、生まれて初めて地震の揺れで飛び起きた。会社訪問は当然すべてキャンセル。「地震に初めて遭遇した」とビビリまくる同級生もいて大変だったが、数日後には予定通りアメリカに帰った。テレビで見る神戸の惨状に心を痛めたが、平成バブル崩壊が顕在化する前だったし、大都会が復興することに疑いを持たなかった。
東日本大震災は中国上海のマンションで知った。英語の報道では原発がかなり危険とのこと。首都圏の人も避難しなければならないとか、東日本にはしばらく人が住めなくなるとか、そういう記事ばかり。周りの中国人からも「お気の毒に」と言われ、日本は終わったかと暗鬱な気持ちになった。しかし日本の知人に連絡すると、少なくとも首都圏ではわりと冷静。報道でも原発はコントロールされているようだということで次第に安心してきた。その後、地元に帰れなくなった方々の話を見聞きしてまたも心が痛んだが、原発という特殊事情ゆえだと思っていた。
復興支援に異議を唱える説をあちこちで見かけるのは、能登半島地震が初めてではないだろうか。
能登半島地震であえて問う、20年後に消滅する地域に多額の税金を投入すべきか
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/78858
たしかに国が大借金を抱える中で過疎地をどこまで救済するのかという問題はある。一方で居住や移転の自由、生存権などを簡単に放棄していいのかという問題もある。
能登半島地震、過疎地のインフラ復旧を経済合理性だけで議論してはいけない
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/78950
しかし、そもそも経済合理性と基本的人権を比較することが間違っているのだ。経済合理性は話が簡単だからそちらに目が向くだけなのではないか。
プランA:20のコストで30の経済効果
プランB:10のコストで20の経済効果
プランBの方が経済合理性が高いということは簡単に分かる。では復興予算は10でいいのか。基本的人権を守るためには30を支出するレベルで生活基盤を立て直す必要があるのだとすれば、プランAを選択するのが国の責務だろう。プランAを進める中で経済合理性を考え、なるべく無駄のないように立て直すなら話は分かる。阪神大震災から29年、能登半島震災は日本が貧しくなったことを実感させられる自然災害だ。