最近我が家を席巻しているのはオサカナである。食べる方ではない。愛でる方だ。
まずはメダカ。メダカはこの春に住宅展示場で開催された「メダカすくい」で確保した子たち。小学五年生の理科の単元にメダカの観察があることを知り親の下心で住宅展示場のイベントに連れて行ったところ、小学1年生と5年生の我が子らはまんまとメダカにハマった(なお住宅を購入する予定はない。)。
その時に確保したメダカは30匹以上だったが、1か月後には6匹になった。縄張り意識が強い魚で、狭い水槽内でパーソナルスペースの取り合いをしたのだ。同士を死に至らしめるレベルで協調性のない種がなぜ絶滅しないのだろう?と疑問に思っていたら、残った子の腹に卵が付いていた。なるほど。拡大と縮小を繰り返すシステムのようだ。これで強い遺伝子を残し進化を早めるのか、などと感心しているうちに、子メダカはあっという間に100匹超。「狭いところで飼ったらまた殺し合ってしまう」という親心的学びを得た我が家の子どもたちが園芸用大プランターをベランダに設置し、子メダカを手厚い庇護のもとで育て始めたからだ。自然界のシステムでは、メダカの卵及び子メダカは親の格好の餌であり相当数淘汰されるのだが、我が家の子どもたちがせっせと卵を取り分けて蝶よ花よと育てた結果、あっという間に三桁である。かくして我が家の(メダカを入れた)人口推移は二か月で増えたり減ったりと大変動したのだった。
しかしメダカの天下もそう長くはなかった。7月後半、夏祭りの季節に今度は金魚が我が家にやってきたのだ。金魚すくいの産物である。子どもたちの寵愛はあっという間に金魚にシフトした。これまでメダカの水槽に使っていたエアーポンプは金魚水槽に移動された。水草の生きがよいものも、コケ掃除要因のエビも、金魚水槽に移動された(しかしエビはそこまで寵愛を受けない。透明で見つけづらいので愛着がわかないらしい。)。金魚はフナを改良した愛玩魚であり自然界でたくましく生きるメダカとは趣が異なるが、愛でられるためだけに生まれた生き物なのでまぁ確かに愛らしい。
すっかり金魚の虜になった娘、金魚系YouTubeから情報を仕入れ、りゅうきんだらんちゅうだピンポンパールだのの魅力を語るその顔は恍惚としている。先週末は本郷にある金魚カフェなるものにまで連れていかれた。創業350年の老舗金魚屋でもあるカフェはこれまで私が知らなかった世界。店員と金魚談義する娘を待つ私の手元には『きんぎょ生活』なる雑誌があてがわれ、開くと目くるめく金魚ワールドが展開されている。数時間後、帰路を急ぐ娘の手には「江戸川」なるヒラヒラの子出目金2体が大事に携えられていた。THE江戸っ子の店員さんのマニアックな話を聞くうちどうしても欲しくなり、お年玉で購入したのだった。更に昨日も自転車で近所の金魚専門店に行こうと誘われた。ココに行くために全ての義務をせっせと片付けたのだから反対もできなかった。ここでも歯の抜けた店主と金魚談義をし、購入したのは水草だった。何でも薬草らしく抗菌作用があるらしい。それにしてもまあ、よくぞ金魚の話で知らんオッサンと何時間も話せるもんだ。
ということで1か月と少し前まで夢中だったメダカはすでに子供たちの意識の外にある。餌やりや水換えなどそれなりに面倒は見ているのだが明らかに一時期の愛情はない。まあ、メダカ歳時記においてハイライトは初夏。卵と稚魚の面倒がもっとも変化に富み楽しいのは確かなので多少は仕方がないのもある。ある程度状況が安定すると飽きるのだ。飽きたところに自然界では生きられない、ヒラヒラした儚げな金魚が登場した。目移りするのも致し方ないともいえる。人はある意味不安定を求めて生きている。
飽きる、というのは人にとって何なのだろう。仕事の話になるが、先日WEBサイトリニューアルの依頼があり、そこでクライアントは「リニューアルの動機は、今のサイトに飽きたから」と言っていた。ちょっと新鮮だった。大抵リニューアルの動機は「新規顧客獲得が必要」とか「ステイクホルダーへのアプローチ」とか「既存顧客への情報提供」だとか、そんな感じのことが多い。「飽きた」とはどのような心の動きなのだろう。何を望んでいるのだろう。その意味はなんだろう、と薄ぼんやり考えていた。ふと「飽きるということは、新しい自己への希望と欲求で出来ている」という言葉が降ってきた。そうか、「飽きる」は安住の地、安定した生活を捨てて新しい世界へ向かうための動機、つまり冒険の礎なのだ。そう考えれば話は早い。飽きてしまったWEBサイトのリニューアルは冒険が許される。忖度せず、既存路線に囚われず、その会社の新機軸を共に探すのみだ。望むところである。
子どもが飽きっぽいのは成長スピードが大人と比べて段違いに早く、常に不安定を求めての冒険の世界にいるためだろう。「飽き」は未来へのパワー、成長の礎、若さの象徴、とブツブツ呟きながら、親としては今日もメダカ鉢の細かい綻びをフォローするまでである。