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エルサレムのコインランドリー

2023.11.23
福島真由子

わが家には洗濯機がない。地下にあるアパート共用のコインランドリーを普段、使用している。1回10ILS(イスラエル・シェケル。1ILSは40円前後)かかるので、下着やシャツ類はだいたい手洗いし、大人用のズボンなどかさばるものがたまるとコインを握りしめて地下へ降りていく。洗濯機がだいぶ古いのか、コインを入れても動かないことが多々ある。5シェケル硬貨をいくら飲み込ませてもうんともすんとも言わず、何度泣きをみたことだろう。だが、こういう時にはフタを思いきり強くバン!!と閉めれば動き出すことも、今の私は知っている。

この地下の洗濯部屋、実は防空壕の役割も担っていて、厚さ15センチメートルほどだろうか、分厚い鉄の扉を閉ざすことができる。そう、私はパートナーの仕事の都合で、イスラエルはエルサレムへと引っ越すことを前回、ご報告させていただいた。

不確実性を楽しめ

8月にこのアパートへ越してきて以来、毎日、家族5人分の洗濯をしながら、まさかこのコインランドリーの地下室をシェルターとして使うようなことが実際に起ころうとは、夢にも思っていなかった。

事件が起きたのは10月7日。その1週間ほど前から、イスラエル社会はユダヤ教に基づく休暇を満喫しており、私たち家族は隣国ヨルダンへの旅行から帰ってきたばかりだった。休暇の最終日は、旅行中にたまった洗濯物をやっつける以外はのんびり過ごすつもりだった。ところがだ。朝起きてすぐに夫が「ガザからロケット弾が飛んできた」とか言って、慌てて職場に駆けて行った。寝起きの子どもたちと私は、しんとした部屋にとり残された。

土地柄、ミサイルが飛んでくることもあるだろう。だけど、イスラム教の聖地のひとつであるアル・アクサモスクのあるこのエルサレムが狙われることはないだろう――胸がざわざわ騒いでいたが、子どもの前で取り乱すわけにいかず、私は勝手にそう思い込もうとしていた。そうして朝9時ごろだっただろうか。サイレンの音が響いてきた。子どもたちと顔を見合わせ、とまどいながら地下のコインランドリーへ降りてみた。サイレンはすぐに止み、アパートのほかの住民は誰も降りてこなかった。どうすればよいのかわからず、自室に戻る。近所でも騒ぎの様子はない。そのまま自宅で過ごしていたところ、お昼頃、複数回にわたってサイレンが鳴った。今度はほかの部屋のひとたちもシェルターに降りてきた。慌てて部屋を飛び出したと見え、裸足のままの人、水の入ったグラスを片手に、もう片手には小さな子どもを抱えた人など。隣室のフィンランド人のおばさんは「長年ここに住んでいるけど、エルサレムにミサイルがこんなに何発も飛んできたのは初めてよ」と驚いた顔だった。

私は、ミサイルなどの緊急時に警報が鳴るイスラエルのアプリをスマホに導入した。受け取るアラートの地域を選択できるのだが、当初は設定の仕方が分からず、イスラエル全国の警報が届き、私のスマホは常時鳴りっぱなしであった。だがエルサレムに関しては、警報の鳴ったのは多い日でも1日に5~6回だったと思う。1回も鳴らない日の方が多かった。シェルターで顔を合わせる住民たちは、何度も地下室と往復する間、飲み物やお菓子、パン、子どもの着替えなどを持って降り、サイレンが止むと荷物はシェルターに置いたままにして、いずれ来るかもしれない籠城に備えた。ちなみに、うちのアパートの住人はすべて外国人である。休暇の国外旅行から、そのまま国境や国内の検問所が閉鎖されてしまって戻って来られないのだろうか、普段の半分くらいしか人がいなかった。

4-5日後には、エルサレムでは空襲警報は鳴らなくなった。それでも、イスラエル領内に侵入した戦闘員の問題もあったし、いつでもシェルターに駆け込める状態にしておく必要があり、基本的にステイホーム体制。子どもの通う学校も休校となり、オンライン授業に切り替わった。3日分の飲食物を自宅に確保するようにとの政府の通達があったので、外出時にかけこめる公共のシェルターの位置を押さえた上で、おそるおそる買い物に出かけた。水道水を飲用できないので、備蓄用の水を買ってくるのが最も骨が折れた。多くの店が品薄状態だと国内ニュースになっていたが、わが家は1本通りを下ればアラブ人のストリートがあり、そこの商店はいつも通りの品ぞろえだったので、ありがたかった。

ニュースを開けばおそろしい情報の洪水。しかし、実際のわが家の周辺は静かなものだった。いつも騒がしい通りが静まり返って、不気味なほどだった。その頃、どこの国がいつ退避便を出すといった情報がどんどん増えて、エルサレムであっても逃げなければならない状況なのか?これからもっと恐ろしいことが起きようとしているのだろうか?と私は不安に駆られていた。日本へ帰国しようと思えばまだ商用便が運航していた時期だったが、空港のあるテルアビブの方がエルサレムよりもよっぽど頻繁に空襲警報が鳴っているし、着弾もしていた。ここを出て飛行機に乗るためにテルアビブへ出かけようという気が起こらない。ヨルダンへ陸路で抜ける方法もあるが、人づてに「多くの人が押し寄せているため国境が長蛇の列で何時間かかった」とか「現地でホテルを見つけるのも、家族連れで人数が多ければ大変だった」といった話を聞くと、我が家では夫は退避しないので、私が1人で子ども3人を連れてヨルダン抜けをやってのける気力もわいてこなかった。とりあえず、ここにいるのが安心なのではないか……。

そんな自分の気持ちを変えさせた出来事が起きた。11日の夕方のことだ。外にサイレンは鳴っていないのに、スマホのアラートだけが鳴った。空襲警報ではなく、見慣れない避難指示が出ていた。と同時に、知人からの電話で「ヒズボラが越境してきた」という情報を得る。ヒズボラはレバノンのイスラム武装勢力で、イスラエルの多くの人は、これが関与してくることを恐れていた。電話してきた知人の声もふるえていた。この事態が起きたとなると、すぐに避難しなければ!と私は瞬時に決断した。すぐにヨルダン側の宿泊場所を探し始めた。ビザは、先日のヨルダン旅行の際のものがまだ使えることを確認した。夫はいつも使っているタクシー運転手に、明朝にヨルダンとの国境まで家族を乗せてくれないかと電話していた。

1時間もたっていなかったと思う。ネットでヨルダンのホテルの予約と決済をするというまさにその時に、なんと先の警報が誤りだったことが発表されたのだった。レバノンからヒズボラのドローンが国境を越えてきたという事態を想定したアラートを準備していて、誤って実際に発布してしまったという。一気に気が抜けた。

タクシーはキャンセルし、ホテルの予約サイトもすぐに閉じた。だが、私の気持ちは日本に一時避難する方に傾いていた。実際の危険が迫ってきてからではおそいのだと、この期に及んでようやく理解したのだった。情報に右往左往されている生活を長く続けてはいけない。その頃の私といえば、子どもたちのオンライン授業のサポートも、3歳の息子の遊び相手の役割も放り出し、四六時中ニュースを追いかけ、知り合いと電話して情報交換してばかりいた。情報弱者であることを自認していたし、自宅で子どもと過ごすだけではさらに取り残されそうでこわかったのだ。本音を言えば、私は今、歴史の動乱のただなかにいるという興奮もあったと思う。だが、そろそろ私は子どもを日常生活の中に戻してあげなければならなかった。

日本政府がドバイまでの退避便を出すということはすでに聞いていたのだが、それより先に出る韓国軍の退避チャーター便に、私たち母子は急きょ便乗させてもらえることになった。この件も紆余曲折あって色々と大変だったのだが、話せば長くなるので割愛する。とりあえず、日韓国両政府の方々のお世話になって、私たちは空襲警報の鳴り響くテルアビブを飛び立ち、10月16日に無事に日本にたどり着いた。

かすり傷ひとつ負っていないし、シェルターの中で何時間、何日間も息をひそめるような緊迫した事態も経験していない。イスラエルとガザについて、胸に抱えていることはたくさんあるが、ひとまず私個人の経験したほんの1週間のことだけを書いた。その後の戦争の経過は、皆さんもご存知の通りである。

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