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弔辞にかえて

2024.06.04
中島嘉一

中国で出会って10年以上、二人三脚でやってきた副社長の高畑が急逝した。今はまだ気持ちの整理ができない。この10年、本当にいろいろなことがあった。ただ心に浮かぶ高畑をここに記したいと思う。
私たちが出会ったのは2012年の秋。私が上海で起業して1年くらい経った頃だ。最初は私のお客様だった。手元に残っているのは、「TAKAHATA Ryuichi」と書かれた名刺。高畑がこだわったオリンピックスタイルで名前が表記されていた。外国で近づいてくる日本人は大抵胡散臭い。当時あまり社交的ではなかった私の目には、高畑は得体の知れない人と映った。それが私たちの出会いだ。


一緒にビジネスをやるようになったのは2016年、私が日本に帰国してからだ。高畑も先んじて帰国していて、まだ私のお客様だった。彼のビジネスを手伝ううちに、彼も私の仕事のサポートをしてくれるようになった。優秀であることがすぐ分かった。「すごいおじさんだな」と思ったことを昨日のことのようによく覚えている。2016年に経営に参画してもらった。会社のロードマップを描こうと、当時のメンバーである上田も交え、東京で合宿した。その後バイドゥ株式会社と業務提携。徐々にビジネスが形になり始め、私たちは仕事に邁進した。中国の最新情報を発信しようと模索し、36Krに挑んだ。紆余曲折はあったが、36Krの日本進出のパートナーになった。高畑はそこで大活躍した。全ての契約関連、折衝、記事の編集…。新しい会社も設立した。高揚感の中で仕事をした。北京で36Krの社長に会い、その後、私の第二の故郷である広東省に行って、とっておきの店の料理を堪能してもらった。また来よう、という約束でお開きにしたはずだ。


36Kr事業をきっかけに私の名前も世に知られるようになり中国ビジネスの専門家としての顔を持つことになった。慣れない私を高畑はプロデューサーとしてサポートしてくれた。VCからの援助もあり、社名も「プラスチャイナ」とした。日本のビジネスに中国の売上をプラス。両国の発展に寄与しようと思った。が、そこでコロナ禍となりプラスどころではなくなる。時を同じくして高畑はプライベートが騒がしくなり、資金は底をつき、事業解散の危機にまで追い込まれた。なんとか食いつなぐも、この頃二人で何度揉めたか計り知れない。


苦肉の策として、インフルエンサーマーケティングを始めた。「中島社長」という名前で日本や中国のビジネス情報を発信。そこでも高畑はプロデューサーとしての手腕を発揮した。フォロワーは増え続けたが、なかなか利益には貢献しない。私は我慢の限界だった。半分鬱だったと思う。必死で作業をする傍らで高畑はまだプライベートに振り回されていた。「仕事してよ、高畑さん」と何度言ったことか。何とか活路を見出そうと、ビジネスのマッチングサイトの研究を始め、Web幹事やアイミツといったWebサイト制作案件紹介のプラットフォームを知った。使ってみると秀逸なシステムだと感じた。紹介された企業向けに、高畑に企画書を書いてもらい、私が営業した。高畑のビジネスを見る目は確かだ。Webサイト制作代行という分野でもそれが遺憾なく発揮され、Webサイト制作を主軸にした企業支援ができるようになった。クリエイティブメンバーも、クライアントや実績も徐々に増え、BtoB企業のブランディングに強い制作会社だと認知され始めた。私は営業、制作統括、人事と身を粉にして働き、それは今も続いている。が、一方で高畑は相変わらずプライベートに翻弄され、私の負担は増すばかり。手を動かすのは常に私で、ぶっちゃけ、不公平感はずっとあった。よく喧嘩もした。が、やっぱり高畑は、キラリと光る着眼点で会社を救ってきた。大して手も動かさず、汗もかかずに、だ。この会社は、実質高畑が社長で私は彼の手足。それなのに矢面に立つのは常に私で、いつか必ず翻すぞと密かに誓っていた。その誓いを果たす前に、しかも急に逝ってしまうなんて本当にひどいと思う。


私にとって高畑はビジネスの大先輩であり、心から尊敬している。企業の光る部分を見つける洞察力、人の心を動かす術、文章の上手さ、切り口の鋭さ。唯一にして無二のものだった。その一方でダメなところもいっぱい知っている。いっぱい迷惑をかけられた。賢いはずなのに何でもすぐ忘れるし、時間は守らないし、やってとお願いしたこともやらない。スケジュール上承認しているはずなのに「今日〇時から会議だけど大丈夫?」「今から会議です。」という電話はルーティンワークだった。あの朝も、「9時半からの会議、大丈夫?」と電話すると、彼はいつも通りに「うん」と返事をした。そして、これが最後の会話になった。


お金儲けだって、妙なカッコつけるのでそこまで上手くない。私とは全く違う人間で、生き方も頭の回転の速さも、何かを感じるセンスも違う。だから全てを理解しようとは思わなかった。6割は迷惑を被って文句を言いたい気持ちで、残りの4割が心からの感謝の気持ちだ。この比率を挽回してもらいたかったが、前置きもなく勝手に逝ってしまった。この比率でずっと固定になってしまった。


高畑は夢を描いてビジネスをしていた。彼は常々「ロードマップを描け」と言っていた。おかげで私も少しずつわかるようになった。電話してもなかなか捕まらないし、手は動かさないし、話し方はいつも偉そうだった。しかし、どんな未来を創りたかったかは私が一番知っている。高畑みたいな変人と一緒にビジネスをできる人は多くないだろう。私はその稀少人材になれた。それが今、何より私の誇りである。

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