中国のインターネットの歴史 -激動の20年-
目次
歴史を辿れば未来が見えてくる。中国インターネット激動の移り変わり。
1.
最も早くアメリカで上場した中国のインターネット関連会社は中华网であり、ドメイン名は牛逼、中国概念株としてその株価は一時100ドルを超えて高騰した。その後底まで下げ止まらず、上場廃止、今となっては誰も覚えていないだろう。
2.
かつて联想(レノボ)はfm365.comを立ち上げた。联想のインターネット戦略は非常に早期から始まっていた。レノボPCへの内蔵に伴い、一時は国内で有数の地位に上り詰めたが、その後は?ドメイン名を失う事があり、そして復活する事はなかった。
3.
現在最大の文学サイトは起点文学、最大のダウンロードサイトは一つは华军软件、もう一つはバイドゥに買収された天空下裁である事は皆さん御存知だろう。しかしかつて最大の文学サイトは黄金书屋であり、最大のダウンロードサイトは海阔天空であった。しかしこれらのウェッブサイトは全て多来米という会社に廉価で買収されてしまう。当時個人サイトはその価値が認められていなかった。その後多来米は多くの優良な個人サイトを買収したが全てお釈迦にしてしまった。
4.
最も早いオンラインショップは8848.comであった。かつては中国オンラインショップサイトのトップブランドであったが、あと少しで上場出来るという肝心な時に、ご破算になってしまい、その後は衰退していくだけであった。
5.
世界のインターネットの巨頭が中国インターネットの先駆者を買収する。一見すると最高のパートナー誕生となる様に思える。2つの例を挙げよう。ebayは当時の先駆者である易趣を買収した。この時易趣は中国オンラインショッピング市場の80%以上のシェアを占めていたが、その後新たに設立されたタオバオに完膚無きまでに叩きのめされてしまった。ヤフーは3721を買収した。当時3721の収入規模及びシェアはバイドゥを圧倒していたが、その後間もなくバイドゥ神話の誕生を目の当たりにする事となる。
6.
初めてA株市場に上場したインターネット概念株は海虹控股であり、当時彼らは中国で最大のまさに向かうところ敵なしの独り舞台であったボードゲームプラットフォームの联众游戏を配下に納めた。その後緩やかに联众は時代に取り残されていく事となる。今日我々は腾讯(Tencent)は言うまでも無く、波克城市の様なボードゲームプラットフォームでも、その収入は联众よりもはるかに多いことに気づくだろう。
7.
かつて最大のインストールツールは网络蚂蚁であった。
8.
ネットバブルが崩壊した時、网易は三大会社の内もっとも脆弱であった。株価は一度1元を割り込み、丁磊は自分が任命したCEOを解雇し、経理スキャンダルが露出し、メディアは毎日网易の上場廃止へのカウントダウンを数え、誰もが皆その不幸をあざ笑っていた。そして今日、三大会社の中で最も早く転業に成功し、新業務の開拓で最も成功を収めた网易を私達は見ることになる。現在、ゲーム市場では腾讯をもってしてもどうにもならない位置まで上り詰めている。
9.
南非电讯が腾讯へ投資した際、全てのメディア関係者は南アフリカ人は何と愚かなのだろうと感じ、马化腾にうまく騙されたのだろうと思った。马化腾の資産評価方法は全く持って根拠が無く、oicqユーザー(当時はまだQQと呼ばれていなかった)は皆若年層の低収入者が多く、消費能力が無いと言われていた。現在腾讯の株主としての価値とキャピタルゲインは南アフリカ电讯グループ経営の最大の支えとなっており、それは本業での利益を上回っている。
10.
かつて誰もが中国インターネット業界の大勢が決し、新浪搜狐の覇権的地位は揺るがないと考えた。そして今日振り返ってみれば…。
11.
バイドゥと新浪はかつて醜い罵りあいを繰り広げた。バイドゥは当時ただの技術サービス会社に過ぎず、新浪の検索はバイドゥの提供する技術サポートによるものだった。その後新浪はバイドゥの技術サービス費用の支払いを滞らせた。李彦宏が怒りに任せて新浪の検索インターフェースをストップさせた時、メディアは皆李彦宏が狂ったと思った。なぜならインターネットの覇権者である新浪はいつでもバイドゥをひねりつぶせると考えたからである。これも李彦宏が電話を叩き切って自らサイトを立ち上げる決心した原因の一つである。
12.
かつて一つの夢のような希望があった。それは中国インターネットにいつか十億ドルの市場価値を超える巨頭が現れないかという希望であった。
13.
バイドゥが上場した際市場価値は百億ドルを超え、PERは千を越えた。当時国内のほとんどのアナリスト達はバイドゥは過剰評価されていると分析した。
14.
中国でゲーム業界は成功しない、中国人はゲームなどに課金しない。これは2002年以前の業界の共通意識であり、当時のゲームといえばPCゲームであった。台湾と日本のゲームが大陸で大流行していたが、盛大の突然の出現とともに、全てが大きく変化した。
15.
グループチャット機能は朗玛UCが最も早く市場に出し、その反響は非常に好評であった。しかしユーザーの発展は目覚しく、新浪はそれをみて直ちに買収した。当時腾讯はユーザー課金を目論見、PC登録QQの機能を取り消し、携帯のショートメールによる検証コードのみ登録を許し、一回の登録で1元を徴収した。その結果朗玛UCが取って代わり、直ちに無償登録を復活させ、同時にQQ群を市場に出した。そして新浪のこの度の投資は基本的に失敗したと言える。
16.
バイドゥは百度Hiというチャットツールを市場に出した事がある。また百度有啊Eコマースプラットフォームも立ち上げた。しかし今日多くの若者にとっては聞いた事もないものである。私のアバターは当時百度Hiにあった气泡熊の顔スタンプから取ったものである。百度Hiでもっとも成功し価値あるのは气泡熊の表情だと筆者は思う。
17.
网景ブラウザはかつて一種の革命を起こしたと考えられていた。市場シェアは一時80%を超え、当時の网景は野心満々であり、ブラウザをネットの最終OSにしようと目論見、市場もそれを受け入れ、株価と市価はうなぎ登りに上昇し、多くの投資者は网景はネット時代のマイクロソフトになり得ると確信した。その後マイクロソフトがブラウザを内蔵するようになり、网景はマイクロソフトを独占禁止法で告訴した。その裁判は長期化したが、マイクロソフトブラウザのシェアは上昇し、裁判が終結する前に网景は終わりを告げた。ただし面白い事に現在、国内には360ブラウザがあり、国外のFirefox、googleのchromeブラウザとそのシェアを分け合っている;何故当時网景のやり方では成功を収める事は出来ず、今第三のブラウザが誕生したのか?つまり、それはマイクロソフトの独占に囚われず自分自身の問題に対して見つめ直したほうが良かったという事だろう。
ここにひとつの回答を与えよう。网景の思考はインターネット上のソフト会社である事、しかし、現在の第三のブラウザは完全にインターネット方式である。マイクロソフトにとってソフト会社は赤子の手をひねるより簡単につぶす事が出来たのである。
18.
2000年頃マイクロソフトは検索エンジンを世に出したが、当時はまだbingではなく、MSN検索であった。国内のアナリスト達は誰もがgoogleは、マイクロソフトの強力な技術力、潤沢な資金、豊富なソース、ターミナルまで補完できるという強大な壁の前になす術が無いだろうと考えた。しかし、当時の俞军氏はマイクロソフトは検索の何たるかを理解していないと固く信じ、googleと競合することは無いと考えた。私はここに史実を露にし、俞军を神と崇める事にする。
19.
吴京川氏が十数年前に検索エンジンの収入源の説明をしてくれた時、私はさっぱり理解する事が出来なかった。数年後あるニュース事例をみて突然理解し、その後市場のチャンスを逃したと残念に思った。しかし最近になって市場のチャンスは常にあるが、ただそれに加わるハードルがどんどん高くなっている事に気がつき、自分の愚かさは救いようの無い事を自覚した。
20.
地方電信のポータルサイトとそれに付随するそれらのリソースに対して、社区はかつて一度インターネットデータ量の半数を占めた。例えば比較的有名なのでは、上海熱線、貴州信息港、碧海銀沙等々がある。
21.
网易は元々一つの個人サイトにすぎず、丁磊は中国最大の個人サイト管理者であった。当時丁磊は無償の郵便局を立ち上げを企画し、広州電信に掛け合いに行った。電信は一分のお金も払わずに、共同で郵便局のプラットフォームを建設し、電信はブロードバンドのリソースのみ提供すればよいからと。(当時ブロードバンドのデータはとても高かったが、電信にとってはコストはとても低かった)パートナーとなり、その後未来の広告収入をどう山分けするか等々を説明した。当時の局長は張静君は最初その話を聞いた時何を言ってるかさっぱりわからなかった。しかし資金も出さずに利益が分配される、そんなにうまい話があるのだろうか?ここには必ず非常に大きな利益が隠されているに違いない。このようなうまい話を丁磊に独り占めさせてなるものか。ならば私は直接あなた達のシステムを買いましょうと提案した。そうして国内初の無償郵便局である163.netが誕生し、顧客数は予想通り激増した。なぜなら競争相手がいないのだから。しかし長く続けても、対して利益は上がらず、その後この郵便局は売られる事になり、国有資産の流失と騒がれた。張静君はその後独立起業し、一度はインターネットの親玉と騒がれ...。もちろん丁磊も負けてはおらず163.netを電信に売った後、自分で163.comを立ち上げたのである。
22.
腾讯の当初のドメイン名はtencent.com、バイドゥcdnが長期にわたり使用した転送ドメイン名はshifen.comであり、皆全て1毛である。これはどういう事かというと、アメリカの巨頭はマイクロソフト、中国の巨頭は1毛である。
23.
李彦宏,周鸿袆,马化腾,雷军,丁磊,史玉柱,彼らは全てプログラマー出身である。それもかなりレベルの高いプログラマーであった。当然张志东については言うまでもないだろう。実際このリストにはまだまだいくらでも書き加える事ができる。多くのまだ有名になっていない上場会社の社長もほとんどがプログラマー出身である。例えばC-tripの社長の梁建章等々もそうである。
24.
個人サイト
南杨北高(南に杨あれば、北に高あり)はかつて個人サイトの伝説であった。高春辉の個人HPはかつて国内サイトの総合トップ10にはいり、車のセールスマン出身である第一代サイト管理者の杨震霆は現在すでにカナダに移民し、当地の華人達は彼の輝かしい歴史を誰も知らないだろう;高春辉は依然として次々と起業し、中国インターネット創業者の草分け的存在の生き証人となっている。
今では卓越网の最初の社長が高春辉である事を知っている人はほとんどいないのではないだろうか。当時の卓越网はただのダウンロードサイトであった。
梅州から離れずほとんど遠出しない、取材を受けた事が無く、各種サミットに参加せず、(実際には一度だけ参加した事がある)、そんな学生である李兴平が草根网站を創造したのは奇跡ともいえる。彼は地元の数名のチームにより、国内アクセス数トップ20に入った3つのサイト、hao123、qq1163と4399を立ち上げた。また他には3533、ip138、oiqq88等多くのサイトも盛況であった、その勢いが最もあった時、ある音楽個人サイトの管理者は李兴平の交流が深かった事により、彼のところからたやすく毎日十数万から数十万のユーザーを訪問させる事が出来た。
もちろん、今日では個人サイト管理者の時代は過ぎ去ってしまったが。
25.
変化を受け入れる
バイドゥの始まりはポータルサイトへ検索技術を提供するサービス会社であった。自らがその地位に上るつもりは全くなかった。
腾讯は当初電信へICQシステムを提供する事を目標とし、自らポータルサイトになるつもりはなかった。当時開拓しようとしたのはユーザーのサンプル測定システムであり;
その結果というと、電信には相手にされなかった、幸いにも相手にされなかった。
阿里の始まりは企業のイエローページであった;
盛大の始まりはソーシャルサイト、その失敗後最後に残された資金で传奇の代理を始めた。当時は皆中国にはゲーム市場は存在し得ないと考えていた。
よって、代理費用はとても廉価だった;
京东の始まりは中関村で露天商をしていたという事は言うまでもない。
唯品の始まりは贅沢品を扱い、その結果多くの赤字を出した。その後二流ブランドを扱い始めてから復活した。
聚美优品、陈欧が第一に起業したのはゲームの広告プラットフォームであった。その後化粧品販売へと転業した。
奇虎の始まりはソーシャル検索サイト、底意地の悪い阿里は360をもって3721を追い込んだが、その結果は皮肉なものとなった。
新浪の始まりは四通利方论坛で、海外の華人のポータルサイトを収めてポータルサイトに転向し、その後微博にて大化けする事になる。
网易はバーチャルソーシャルから郵便局、ポータルサイト、移動SPを経て今日のゲームサイトへと至る。
搜狐はポータルサイトからゲームサイトへと;
今私に教えて下さい、あなたの見定めた潮流は未来に渡って前途洋々といえますか?
未来の二十年、インターネットと各種業界は垣根を越え交わりあい、新たに誕生する機会と市場規模は、現在のインターネットの規模をはるかに超えるものとなる。(冗談ではありません、インターネット金融の領域ひとつを取ってみてもその将来の規模は現在のインターネット産業の全ての規模を凌駕するでしょう)あなたにとって今理解する事は出来ないかもしれない、でも市場の差異性と情報の非対称性の巨大なギャップを感じる事ができれば、先駆者の後を追い、わずかに遅れている領域で汗水を流せば、神の見地から、大きな見返りが得られる事でしょう。それは決して難しい事ではありません。