ネット社会に視る中国と日本の違い
現在の情報社会において、日本人はテレビや新聞報道などの情報を受動的に鵜呑みにしています。ところが中国人の場合はそうでありません。中国人と日本人のネットリテラシーにスポットをあててみました。
中国人のネットリテラシー
ネットリテラシーとは、情報ネットワークを正しく利用することができる能力のことであり、インターネットが普及して最も身近で豊富な情報源となった現在、インターネットを使いこなす基本的な能力を指す言葉として「ネットリテラシー」が定着しています。
中国人にとってネットの世界は、日本とは大きく違った意味を持っており、日本とは異なった形で日常の様々なシーンに垣間見ることができます。ネットの世界は気付きにくいものも鮮やかに映し出してくれる一面もあり、高度経済成長のなかで育った中国の若い世代は、ネット上の様々なツールや情報を駆使することが当り前となっており、自分たちの手でネットを育てあげているのです。
彼らにウェイボーなどSNSがこれほどまで受け入れられたのは何故でしょうか、それは中国人の既存メディアへの不信感、すなわち当局の言論統制のもと世論誘導を行う官製メディアを日常的に目の当たりにしている中国人は、既存メディアの情報は鵜呑みにせず、口コミを重要視してきたのです。したがって彼らにとってウェイボーなどのSNSが真の情報源であり、必然的に情報収集能力も高まり、自ずとして比較的高度なネットリテラシーが身についているのです。
当然ながら、事故現場や火災現場にいた人々は即刻その状況をSNSで発信するので、情報メディアよりも早く、また情報メディアが伝えない内容のものも発信されているため、益々情報源としての価値は大きいものとなっています。
GoogleとBaiduの違い
また、ネットでのサービス面を見ても生活に密接したサービスが豊富で、彼らにとってインターネットは生活の一部と言っても過言ではありません。グローバルなGoogleと中国のBaiduを比較してみると、Googleは様々なサービスを展開しており、個々のサービスの種類も豊富ですが、中国のBaiduが提供する個々のサービスはGoogleに劣らぬばかりか、なおかつサービスとサービスが連動しているところに大きな違いがあります。
たとえば、「探す」「予約」「購入」「決済」といったことがBaidu検索では一連の繋がりで完結できるのです。また、ユーザーによるポータルやコンテンツの作成というコンセプトがあり、「百度知道」や「百度百科」などはこのコンセプトから生まれたものであって、ネットユーザーがネット社会を育てていると言っても過言ではありません。
日本人とインターネット
それに比べて日本人にとってのインターネットの立ち居地はどうでしょう。生活に密接しているが故に中国人のネットリテラシーは精錬されていますが、日本人の場合はSNSをひとつの玩具的な扱いで誹謗中傷に走ったり、無責任極まりないリテラシーが溢れています。
正しい理解と正しい情報発信、正しい情報共有こそが求められる情報社会であるのに対して、日本の場合は自らネットを遊び道具のように扱う輩も目立ち、決して褒められたものではありません。日本人のネットリテラシーは倫理面では最悪と言えるのではないでしょうか。
もちろん真面目なネット利用も成されているのですが、全体を捉えたときに日本ではネットは道具の一つといった感が否めません。そこにはネット社会に対しての「情報共有概念」が欠けているのかもしれません、特にSNSの世界では「不満の捌け口」「自己主張」「自己満足」の道具化している場合もあり、決して情報共有どころかゴミ箱的に扱われている事実は否めません。
中国のようにネット規制も無く、「言論の自由」を履き違えた輩が秩序を乱す日本のネット社会は、一部では統制されているもののその統制も甘く、また、個人が開設した電子掲示板(BBS)の部類では誰が取り締まるでもなく汚点を残したまま放置されているようなものもあります。
ネットをただの道具として捉えて共有意識を持たぬが故に、より良いネット社会を育てようというコンセプトが無いのです。
冗談を言わせて貰うならば、マイナンバー制度が導入された日本においてはネット上のすべてのアカウント=個人番号・法人番号にすれば良識のもとにネット社会がより良いものになるのではないでしょうか。(これこそ無責任極まりない発言でしょうか)
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